番犬ハナとMIX犬サクのおさんぽ毎日:母からの聞き書き
2022-03-22T10:10:32+09:00
mikihana922
mikihanaです。元宮崎県民です。犬たちのこと、日々のことをあれこれと・・・。
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ああ言えばこう言う老母93歳③ 「もうあんな暮らしなんてしたくない。」
http://mikihana92.exblog.jp/32529930/
2022-03-24T09:38:00+09:00
2022-03-22T10:10:32+09:00
2022-03-22T10:10:32+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
ウクライナとロシアの戦争が始まって
悲しいニュースも流れます。
母は第二次世界大戦の真っただ中で青春を過ごしました。
軍国少女世代です。
新聞もラジオも統制されて日本が負けるなんて思ってもみなかったと言います。
インスタ、SNSなんていうけれど今の時代も変わらないように思います。
ウクライナでは爆撃を避けるめ夜間の灯りを点けないとニュースで見たので
母に尋ねると当時の日本も全く同じだったそうです。
「どこも自分の国が一番と思ってるからね。」
TVの映像を見た母の言葉です。
母が女学生の頃の話を始めました。
空襲警報が鳴り始めたころは
学校や学徒動員(静岡松坂大丸店で東芝の真空管をつくっていました)で
防空壕へ避難していたそうです。
でも戦争末期になると防空壕ではなく自宅に帰るようになっていて
自転車で片道1時間、でこぼこ道を必死に走らせて戻ったそうです。
途中、警防団の人から近くの防空壕へ入るよう指示されますが
早く自宅へ帰りたい、安倍川を越えればなんとかなる、その一心で。
で、これで終わりではありません。
警報解除から時間があれば、また1時間かけて学校に戻ります。
当時の女学校というか女学生ってすごいですね、今では考えられません。
こんな話をしてくれたあと、
「もうあんな暮らしなんてしたくない。」
母はポツリと言いました。
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今日は終戦記念日 老母から聞いた女学校の生活
http://mikihana92.exblog.jp/32268349/
2021-08-15T22:58:00+09:00
2021-08-15T22:58:36+09:00
2021-08-15T22:58:36+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
「総力戦を生きぬく(3)」に載っていた
日本画家・小畠鼎子さんの作品「増産」です。
1944年(昭和19年)に描かれたものですが
キリッとした表情の女学生がサツマイモを収穫しています。
昭和19年、母は女学校3年生ぐらいだったと思います。
当時の話を何度も聞かされていますが
戦争によって物資もどんどんなくなってきて
体育の時間には
近所の農産試験場に草取りに行ったり、
運動場にサツマイモを植えて育てたそうです。
女子でも「肥え」を入れたものを肩に担いで畑にまいたとか・・・。
この絵を見ていると
私の知らない女学生だった頃の母の姿と重なって見えます。
最近はその話にもう一つ加わっています。
収穫したサツマイモは生徒の口に入ったことがなく
多分、先生方が持ち帰っていたのではないかと言います。
母の家の稼業から言うと
贅沢はできないものの食べることには困っていなかったはずですが
お腹の空く育ち盛りだった年頃には疑問もあったのかもしれません。
それが90歳も過ぎてから正直に口にするようになりました。
3,4年前に母から預かった写真です。↓
母の通っていた女学校です。
デイサービスに同窓生が通所されていて
その方にこの写真をお見せするために
古いアルバムからはがしたようです。
人一人も写っていない、
田んぼの中にポツンと建っている学校ですが
戦争に翻弄されながらも友人たちと過ごした場所には
母の思い出がいっぱい詰まっていることでしょう。
私も大切に保管しています。
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送球、篭球、わかりますか?
http://mikihana92.exblog.jp/31181212/
2020-05-13T20:30:00+09:00
2020-05-14T05:47:05+09:00
2020-05-13T20:30:57+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
学生時代のお話です。
以前にも書きましたが
女学生のころ、静岡松坂屋で東芝の真空管を作っていました。
いわゆる学徒動員です。
戦争中のことですが、それでもお昼休みには
屋上でみんなで輪になってバレーボールを楽しんだそうです。
「バレーボールなんて言わなかったわよ、排球!」
びっくりしました。敵性語だったからでしょうか。
今日は行ってきたばかりなので、来週また聞かなくちゃ。
こういう話をすると、とても活き活きします。
女学校に入ったころは
体育の授業の一環で倶楽部めぐり(正確な言い方かどうかはわかりません。)があって
それぞれのクラブ活動を体験して回ったそうです。
当時の女学生の会話です。想像ですが・・・。
「部活何にするか決めた?」
「私は送球!」
「え、だってできたばかりよ。
私は庭球! お姉さま方が全国優勝されてるもの。」
「私は篭球。背が高いから有利かも。」
さて何のスポーツのことでしょう?
私でも庭球はわかりました!
答えです。送球=ハンドボール 篭球=バスケットボール
実家近くを散歩中のサクです。
今日は夏日で暑かったですが
緑いっぱいの散歩道は楽しそうでした。
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昭和初めの節分行事
http://mikihana92.exblog.jp/30699999/
2020-02-03T21:36:00+09:00
2020-02-03T21:38:24+09:00
2020-02-03T21:36:09+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
母(90才)から聞いた、母が子供のころの節分行事のお話です。
小学校の低学年あたりでしょうか、
あまり小さくもなかったということなので・・・。
昭和一桁の頃です。
節分の日の午後、暗くなる前に地区の子供たちが集まってお寺に行きます。
お寺では和尚さんが待っていて
子供たちを部屋にあげてお菓子や落花生を一斉に撒きます。
落花生の中に黒い印がついているものがあって
それを拾うと一銭、お小遣いとしてもらえます。
なので年上の男の子たちはわれ先に夢中で落花生を拾い集めたそうです。
それが終わると、再び子供たちが集まります。
もう薄暗くなっていたようです。
上級生の男子がズタ袋(農作業やいろいろなものを入れる袋)を背負いながら
小さい子供を引き連れて地区の一軒一軒、声を掛けて回ります。
節分なので「豆、まいとくれ~~。」ですが、
当時のことなのでメチャ方言です。「豆みゃあとくれ~~。」
どの家もちゃんと用意してあって落花生を撒いてくれたそうです。
そのうち戦争も始まって、
母が女学生のころは子供たちが回ってくることはなかったそうです。
節分行事もすたれてしまったのですね。
今日、サクと散歩中に見た富士山です。
大きなコーヒーカップを被っているようでした。
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今日は十五夜、お月見団子のお話です。
http://mikihana92.exblog.jp/30446412/
2019-09-13T23:33:00+09:00
2019-09-13T23:33:05+09:00
2019-09-13T23:33:05+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
残念ながら見えませんでした。
先々週、母から戦前の十五夜の風習を聞くことができました。
十五夜でお供えする月見団子は「へそ饅頭」だったとか。
真ん丸のお饅頭ではなくて
上の部分がおへそみたいに、くぼんでいるお饅頭(へそ餅)です。
(静岡市出身の先輩も月見団子はへそ餅だと言っていたので、
これは静岡市辺りの風習のようです。)
月見団子はただお供えしているだけではありません。
地区の若い男性たちが
家の人に気づかれないように盗みにくるらしいです。(笑)
また違う地区の若い男性が
若い女性のいる家にふらりとやってきて
何か口上を言うこともあったそうです。
「私のうちには来なかったけど。」と
母は言ってましたがどーなんでしょ。(爆)
戦前はおもしろい風習があったのですね。
のどかだワ~~。
お月見団子について、こんなサイトを見つけましたので
リンクさせていただきました。
皆さんの地域では
どんなお月見団子をお供えしていらっしゃるんでょ?
月明かりでなはく
玄関の電灯の明かりの下のサクです。
カメラを向けたら大あくびしています。
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今日は太平洋戦争開戦記念日です。
http://mikihana92.exblog.jp/29889550/
2018-12-08T23:21:00+09:00
2018-12-08T23:21:28+09:00
2018-12-08T23:21:28+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
78年前のことです。
当時、母は女学生でした。
敗戦が近づくにつれて静岡市内も空襲による爆撃を受け
女学校も体育館と運動場だけが残りました。
学校へ行って何をするかというと
運動場を畑に替えてさつま芋を植えて育てていました。
肥料は校内のトイレから自分たちの糞尿を汲み取り
桶に入れて畑にまきます。
本来、糞尿はすぐ使わず熟成させるそうですが、そのまま。
母のように郊外から通ってきた生徒だけでなく
街中から通っている友人も一緒に作業したとか。
週一度の通院の際にいつも通る道があります。
その度に母が昔は田んぼだらけで何もなかったと言います。
先日は、それに加えて↑のような話になりました。
さつま芋を育てていたことは何度も聞いていましたが
自分たちの糞尿を運んで肥料にしてまいた話は初めてでした。
年頃の女の子たちは、どんな思いで作業をしていたのでしょう。
肥料が飛び散ったりして苦労したのではないでしょうか。
あれから80年近く経って
今では娘(おばあちゃんですが)が連れてくるペットに迫られています。
サクは母が大好きです。
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松坂屋の屋上でバレーボール
http://mikihana92.exblog.jp/29689748/
2018-08-15T23:06:00+09:00
2018-08-15T23:06:21+09:00
2018-08-15T23:06:21+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
軍国少女だった母(89才)から聞いた女学生だったころのお話です。
戦時中、母は学徒動員で松坂屋静岡支店の3階で
東芝の真空管を作っていました。
学校へ登校する代わりに松坂屋へ。
帰宅途中に空襲警報が鳴って
警防団から防空壕に入るように言われても
自転車を思い切り走らせて帰宅していた母。
今は普通に暮らしているけれど
この世代の人たちは死と隣合せで暮らしていたのだなと思います。
(これは以前にも書きましたが・・・。(^^ゞ )
母と地震の話になりました。
「地震のとき人は怖がって
真ん中に輪になって集まってくるのを知ってる?」と言います。
学徒動員の松坂屋の屋上から見たというのです。
どうして屋上にいたの?と尋ねると
作業のない休み時間、そして空襲のないときは
屋上でみんなでバレーボールをしていたそうです。
当時の女学生にも楽しい時間があったんだなと
ほっとした気持ちになりました。
ということを
母のお気に入りの松坂屋-青春時代の思い出がいっぱい詰まってます-で
私が試着している最中に
若い店員さんたちに滔々と話してました。(汗)
元気なことで何よりです。(^^ゞ
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母から聞いた「奉安殿」に「四大節」のお話
http://mikihana92.exblog.jp/28972513/
2018-01-06T22:26:00+09:00
2018-01-06T22:29:23+09:00
2018-01-06T22:26:38+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
母が「小学校の門のそばに奉安殿というのがあってね。」と
話し始めました。
奉安殿には天皇陛下御夫妻の写真(戦前なので昭和天皇です)が
おさめられていた建物です。
(後で調べたら教育勅語もおさめられていました。)
そこでは全員の生徒が集まれないので
教室の壁を取り払って講堂として使い
校長先生のお話などを聞いたそうです。
母は80年前のことをさらに思い出した様子で
「四大節というのがあって・・・」と話は続きました。
戦前の小学校では四大節という四つの大きな行事があったそうです。
1月1日の四方節、2月11日の紀元節、
4月29日の天長節(昭和天皇の誕生日)、11月3日の明治節(明治天皇の誕生日)。
どの日も登校して校長先生のお話を聞いて、みんなで歌を歌います。
四方節なら四方節の歌を、紀元節なら紀元節の歌を歌います。
四方節は1月1日なので「年のはじめのためしとて~~♪」です。
へ~~~、この歌なら私でも知ってます!
今でもお正月番組などでよく耳にしますもの。
それに2/11は建国記念日、4/29は昭和の日、11/3は文化の日。
なるほど、戦前からの流れで現在も祝日になってるんですね。
また、へ~~~でした。納得!
当時、行事の最後には紅白饅頭が配られたようですが
母の記憶ではお餅で
家に帰ってから焼いてお醤油をつけて食べたそうです。
楽しみだったのでしょうね
80年前の小学生の活き活きとした生活が垣間見えて
おもしろかったです。
帰り際の母と娘&サクです。
似ていないと思っていたのに
二人の顏の輪郭がそっくりでびっくりしました。
やっぱり血は争えないものですね
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72年前の玉音放送
http://mikihana92.exblog.jp/26892562/
2017-08-15T21:50:00+09:00
2017-08-15T22:02:50+09:00
2017-08-15T21:50:21+09:00
mikihana922
母からの聞き書き
母が終戦の事を話してくれたことがありましたが
せっかくの機会なので、メールで玉音放送の事を訊ねてみました。
何度かやりとりしているうち
思い出した事があったり、メールを打ったり頭の体操にもなったようです。
母によると動員されていた松坂屋(静岡市内)の工場が
3月の空襲で焼けてしまいました。
当時、16・7歳の女学校の生徒です。
(以前にも書きましたが、母は東芝の真空管をつくっていました。)
その後は、学校のグランドや、いろんな部のコートをサツマイモ畑にして
人糞を運ぶなどの作業をしていました。
そこで大事な話があるから家に帰るように言われ、
みんなでラジオの前で正座していたそうです。
(母の話によると、何日か前から15日に大事な話があるからと
言われていたとのこと。)
放送が始まると電波状況が悪いようで
何を言ってるのか聞き取れなかったのですが、
一緒にいた浜松工業の(現・静岡大学工学部)学生さんが
戦争に負けたのだと教えてくれたそうです。
それが72年前の今日8/15のお昼ごろのことです。
どうして一緒に浜松工業の学生さんがいたのか、
女学校では夏休みはなかったのかとか訊ねたのですが、
3つ質問しても1つしか答えがなかったりで
わからない所も多々あります。
でも、改めて話を聞くと
テレビや映画でしか見たことのない世界を
身近にいる母たちは体験しているんですよね。
激動の中を生きてきたのだなぁとつくづく思いました。
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